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ふくしま教育通信 2023年7月号             リレーエッセイ「天才とは」                 福島県教育委員会委員 吉津 健三

 高校の同級生との飲み会での一幕である。
橋本:いろいろ(同級生が)いたけど、 加藤は天才だったよなあ(過去形)。
加藤:いやいや、俺は努力の人で天才ではなかった。本当の天才は高橋だ。
   高橋が漫画を読んでいる時に、その近くで俺が「高橋、高橋」と何度
   呼びかけても全く気付かずに漫画を読み続けていた。あの集中力は天
   才ならではのものだった。
佐藤:違うぞぉ、高橋は、加藤としゃべりだぐなくて無視してただげだぞ。
一同:爆笑。

 活字では爆笑ぶりが伝わりにくいかもしれないが、いずれにせよ、登場人物(仮名)の中で頭の回転の速さという意味では佐藤こそが天才と呼ばれるに相応しい。

 冗談はさておき、世間では、過去にあり得なかった結果を出し続け、その分野で傑出した人物に「天才」の冠を付ける傾向にあるようだ。例えば、天才棋士、天才バッター、天才ゴルファー、天才シェフ、天才外科医・・・と称し、あたかも、常人とは異なる特別の才能を(生来的に)持っている人であるかのごとく囃し立てるきらいがあるように感じる。
 しかし、そのような「天才」自身が書いた、または、「天才」について書かれた本を読んだり、「プロフェッショナル」や「情熱大陸」を見たりすると、どうやら、「天才」たちも、決して、常人と異なる才能を(生来的に)持っていたわけではないことに気付かされる。

 「天才」たちに共通しているのは、弛まず凄まじい努力をし続けて、現在の地位を築いているということである。羽生九段を始め、天才集団と称されるプロ棋士も同じようなことを書いている。しかも、「天才」たちは、(私などの凡人からすれば絶対に真似ができない凄まじい)努力をし続けることは、その業界で生きている以上、当たり前のことであって、何か特別のことをしているわけではないと思っているフシがある。そもそも「努力している」という意識さえないようにも思える。
 そうだとすると、「天才」の活躍ぶりは、その人にとっては、当たり前のことをし続けたことによる当たり前の結果ということになるのかもしれない。

 では、どのようにしたら「天才」たちのように努力し続けることができるのか
 ちなみに、私は、子どものころ、先生から「継続は力なり」といわれる度に、心の中で「確かにコツコツ努力することは大事なことだけれども、所詮、継続する能力のある人しか継続することはできない」と、ひねくれた突っ込みを入れたものだった。
 その突っ込みが本当だとすると、そもそも、努力し続けることができるということ自体が常人にはない特別の(生来的な)才能であって、やはり、「天才」と常人の差は如何ともし難いという身も蓋もない結論になってしまう。

 しかし、年齢を重ねる過程で、いろいろな人と出会い、いろいろな見聞を深めたことで、上記の突っ込みは間違いだということを知った。
 今は、私は、夢や希望があれば、人は誰でも努力し続けることができると思っている。確固たる夢や希望があれば、その実現に向かって自然と「天才」たちのように努力し続けることができると思う。
 私は、全ての子どもたちが夢や希望を持てるように、教育委員として、親として、職業人として今後も取り組んでいきたい。
(執筆:福島県教育委員会委員 吉津 健三(きつ けんぞう))